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終わらない歌。

というわけでの、8/18展示会の話の続きです。

そもそもの始まり、展示会がどうやって始まりを開始したのかは、正直言って色んなことが複雑に混じり合っていて、「ここでこうなって、始まった!」って言える所を探すのは中々に難しいので、去年からの製作の流れからまた思いだしてみよう。

初めてNormでライブをやってみようと決めてみたのが、ちょうど今から一年前の8月頃だったのは覚えている。

アルバムにも入ってる『アローン』って曲を製作するのに、カギとスタジオ入って、その時触れたばかりの今ライブで使っているマシンを持ち込んで、ボタンを一発鳴らすたびにスピーカーを揺らすキックの響きに、毎回「おぉ〜!!」って唸っては、ここから何ができるだろうって漠然と考えていた。

イメージとしてのやりたい事はなんか強烈にあったし、パッションだけはいつも空回るほどに渦巻いていたんだけど、いかんせんそれをぶつけるフォーマットが何もないところからの活動なので(そもそもこの活動が、何のフォーマットも、参考にする事例も、ましてやシーンなんてものもないので、明確なヴィジョンを持つ事がまず無理だ、そらそうであります)、何をどう自分で作り上げて形にしていくのか、馬鹿なりに頭を悩ませていた。

自由にいざやるってなると、思ったよりも難しいのよね笑。

自由過ぎて、それこそ何もないところに獣道みたいなラインを作って行かないといけないし、

それが閉じすぎていたら、自由である意味もないし。

一人、自分がわかっていればいいものなら、それでいいんだから、なんだっていいし、だったらあえて”自由”を名乗る必要もない。

自由って、他人がいて初めて効果を発する概念だった。

閉じる事なら、それこそ誰にでもできるからね。

人に解ってもらって、初めて自由が自由になるんだと、

本当に好き勝手やってから、初めてちゃんとわかった大切な感覚です。

例えば「独白」って、そもそも独白だから独白なのであって、それを「独白」という言葉で表現する事自体がもう既に「独白」ではないよね。

明らかにこのニュアンスには、表面的ではないけど、裏では誰かに「構って欲しい」という付属した意味合いが乗っかっている。

だからこの「独白」という単語がさもすれば文学性を帯びているのも、「外部と繋がっていたい」という遠回しな心理がニュアンスの中にとけ込んでいるから成立しているのだと思う。

こういう感じと「自由」は、同じラインに完璧に重なっているわけではないけれど、近いニュアンスを持っていると思う。

そういうことなので、自分の表現したい事を、去年の夏からどうやったらまず人にわかってもらえるだろう。ただの空虚な「自由」で終わらすことにならないだろうって考えながら(当時はそこまで「考えて」なかったけど、「感じて」いたから悩んでいたんでしょう)、それでも途中で面倒になって、好きなことをとりあえず繰り返しやってみようと思って、好きな事だけやってたし今もそうだな。

だから今もわけわからん%が高くて、対外的に説明の難しい活動なのには変わりないんだけど笑。
ただ前よりもそれを”伝えよう”という意志は強くなってると思います。
その行為が自由をより自由にしてくれるっぽいからね。
言葉にすると難しい。

全然、展示会に繋がってこねー笑。長くなりすぎる改めて書き始めると。

ほんと思い返すと結構壮大な話になっちゃう。狭い話なのに。

状況はどうあれ、自分の生き方に納得しながら生きるとなると結局そういうことになっちゃうみたいだよなんか。

生き方重視って、マジで困難しかないな笑。

たのしすぎ。

次にまた!

Norm/hozzy

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